- 軍艦島 -


2012.10.9



軍艦島上陸。
それはエキサイティングな体験だった。

端島は長崎半島から西に約4.5qにある面積63000uの小さな島。
かつては、三菱の経営で海底炭鉱として操業されていて、最盛期には5000人以上もの人々が住んでいたと言う。
島は護岸され、高層鉄筋アパートが屹立し、その外観が軍艦の「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになる。
エネルギー需要が、石炭から石油に替わった為、1974年の1月に閉山しその4月に無人島になった。

それから40年の月日が経ち、かつて島民が生活していた住居等は廃墟と化し、それは今でも取り壊されずに存在し、しかし時と共に風化しつつある。
僕は、その圧巻でノスタルジックな写真を何かで見た時に、何時かは行きたいなとずっと思っていた。
そして念願だったその軍艦島がある長崎へと行ってきたのだ。


午前中の早い時間に長崎空港に着くと、東京の気温と比べると幾分夏の暑さが残るが、実に穏やかな気候だった。
軍艦島行きは次の日に予定をしていたが、これはもしかすると今日の内にツアーに参加した方が良いかなと思った。
予定変更は無理そうだなと思ったが、一応ツアー会社に変更の電話するとちょっと九州訛りの年配女性が出て、いとも簡単に「良いですよ」と言うことだった。
午前と午後で日に2回、軍艦島行きの船を運航しているので、早速その日の午後の便に乗船することにした。
この軍艦島上陸に関しては、風速5メーターを超えると上陸困難と言うことで、上陸出来る確率は3分の1というちょっとギャンブル的な要素があった。
だから、午前中は風は穏やかだが、午後は強くなると言うことも十分にあるが、こればっかりは祈るしかない。





ツアーの船は長崎港から出港する。
思ったよりも結構な参加者がいて、大盛況と言った感じだった。
造船所や護衛艦が連なる長崎港を抜け沖に出ると、やはり風をもろに受ける。

遠くに霞んだ島が出てきて、最初はそれが軍艦島かと思ったが、これはトーマスグラバーさんの別荘があったという高島と言う島だった。
更に進むと、中之島の少し後方に、なんともアヤシイ建物が見えた。
それが軍艦島だ。





中之島を廻り込むように、ゆっくりと軍艦島に近づいていく。
写真で見ていたものが現実に近づいてくると、なんとも興奮してきた。

こ、これは!

何も無い海にいきなり風化し灰色となった建物群と、その人を寄せ付けない不気味で圧倒的な景観は、感動すら覚える。





そして軍艦島に到着し、船がはドルフィン桟橋に横付けされ、いよいよ上陸する事となる。
無茶苦茶興奮してきた!





桟橋からの海は非常に綺麗で、浅瀬を覗くと、アオリイカがプカプカと浮いていた。





この軍艦島と言う島は、もちろん石炭を掘る為に作られた言わば人工の島だ。
端島は元は岩礁帯であり、採炭が本格化すると拡張に拡張を重ね、そして今日の島の形状となった。
当時は草木などの緑は無く、正に人工の島だったのであろう。





さて桟橋から降りて、最初に目に入るのが奥にある7階建ての端島小学校。
当時は500人以上もの子供たちが、そこで勉強したり遊んでいたそうだ。
学校だから、音楽室や図書館、理科室などがあり、給食を運ぶ為に島唯一のエレベーターもあったみたいだ。
それと手前に見えるのはベルトコンベアーの跡で、石炭を運搬船に載せる時に使ったみたいだ。





現在見える木や雑草などは、植物の種を食べた鳥が糞をして、それが土に返り自然に生えたものだ。
特に当時の女性達は、草木が無いのは寂しいと思い(そりゃそうだよね)、アパートの屋上に土を持ってきて畑を造ったみたいだ。
正に日本初の屋上菜園だったのかもしれない。

丘の上に真新しい灯台が見えるが、これは閉山後に作られたもの。
端島の採掘作業は24時間フル稼働だから、どこかしらに明かりが灯っていて、夜間での船の往来には問題なかったのだが、さすがに閉山後は危険と言うことで改めて灯台が作られた。

石炭が採れない事には意味がないので、当時の人間は掘りに掘った。
深さは1キロにも及び、海底の採掘区域は島から2キロ先まであったと言う。
採掘作業は命がけで、現在から比べるとその過酷さは想像すら絶する。

作業を終えた作業員たちは、全身真黒で、白く見えるのは目と歯だけだったそうだ。
なので御風呂は3回に分けて入るとのことで、先ずは海水で汚れを落とし、最後に真水で海水を落とすと言った風呂に入るのにもかなりメンドウだったろう。








30号アパートはなんと大正5年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリートの7階建てのアパートだ。
大正5年と言うと何年前だよ!と言うくらい昔だが、その当時はかなりハイセンスでハイテクな建物に違いなかった。
地下には共同風呂があり、1階には郵便局や床屋もあるから、まあ今でいえば六本木ヒルズみたいな感覚なのだろうか?





作業員達の家族が暮らすアパートはもちろん、マーケットや学校、病院などの施設は十分に揃っていたと言う。
昭和中期になると、テレビなども普及されるが現在みたいな共同アンテナなどなく、個人個人でアンテナを立てるからアパートの屋上はアンテナだらけだった。
テレビ以外にも娯楽は有り、映画館や児童公園、プール、テニスコート、パチンコホールまであった。
お祭りや運動会やマラソン大会もあり、マラソン大会などは道が狭く追い抜くことが困難だったらしい。
野球なんかのボール遊びは思いっきり出来なかったみたいだが、釣りに関してはいつでも出来ただろうね。

当時の写真を見ると、グラウンドで自転車に乗っている子供たちが写っているが、この島で自転車が必要かどうかちょっと疑問に思う。
これだけの島に5000人と言う超過密都市だが、それでも人々はそこで強かに生活を送っていたのだろう。








時に台風や高波の被害にも屈指ず、戦時中は軍艦と間違えられて魚雷を打ち込まれたり、赤痢などの問題を乗り越え、端島住民は石炭を掘り続けた。
当時の映像で、護岸された場所から日に焼けた子供たちが荒波の中に飛びこんで遊んでいる映像は、今ではちょっと考えられない光景だ。
今多くの人がこの軍艦島に魅かれるのは、その時代の影にひっそりと残っている、当時その場所で生きていた人々の力強さなんだろう。
それは間違いなく、高度経済日本の土台を陰で支えてきた証であり、しかし間違い無く風化しつつある建物群は、何とも愛おしさを感じてしまうのであった。








2009年、この端島は世界遺産暫定リストに掲載された。
本来なら、居住区の奥やアパート内を散策したいところだが、一般の人間が上陸できる範囲はごく限られた場所だけだ。
しかしそれは、風化し続けるこの島を、少しでも長く残したいと想う人達の願なのだ。





さよなら軍艦島。





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